『川柳 杜人』終刊号

 

今年はあちらこちらの句会を主体としている会が閉会、あるいはもう解散が決まっているとのこと。コロナ禍がなくとも、高齢化が著しい川柳の世界なのでどんどんこういう事象は増えていくのだろうと思われる。『川柳 杜人』のように、余力を残した状態で終刊にするというのはいいことなのかもしれない。

 

私と『川柳 杜人』のかかわりは短い期間ではあったけれど、大変お世話になりとても感謝している。終刊が発表されたのが一年前。何か恩返しをさせていただきたいと思い、投句とエッセイを一年間提出させていただいた。

 

杜人の同人には『川柳大学』の先輩が何人もおられたし、誌友の投句欄にも『川柳大学』に所属してらした方々がいて、個人的にはちょっと懐かしい気分で一年間、参加させていただくことができた。

 

『川柳 杜人』の執筆者の幅の広さはかなりのものなので、資料として貴重なものだと思う。創刊号から73年分の合本もあるとのことで、素晴らしい財産が残されていくことは嬉しいこと。広く開かれた資料として引き継がれてゆきますように。

 

そして73年間に同人であったメンバーがわずか38名であったことに驚く。少数精鋭の意義を痛感した。

 

  たましいをぎっしりつめてよこになる  鈴木せつ子

 

 

                                               2020.12.31

 

 

 

 

 

『文学は実学である』荒川洋治 (みすず書房)

 

今年は読書欲が旺盛な一年だった。とはいえ読書に割くことが出来る時間は限られており、でも読みたい本は増え、冬休みに集中して読むつもりで待機中の本がすでにあり、幸せな悩みだと思いつつ困っている。

 

この本はまずタイトルが心惹かれた。内容は幅が広く、毎日読んでいて飽きのこない一冊。

本を読む人が減ってきているということは以前からいわれている。新聞を読む人も、テレビを観る人も減っていることだろう。

そういう世の中で、文学を単なるメディアとして捉えるのではなく、堂々と「実学」なのだと言い切れる、その根拠を簡潔に説明している、こういうエッセイはよくあるようでいて、稀なのではないかと思う。

 

自分自身の経験に照らし合わせてみても、確かに読書という行為に助けられてきたことは事実であるし、句を書くことで日々を乗り越えてきたことも事実で、ことばの世界は決して「虚」の世界のものではないことを知っている。

だからこそ、公の立場から発信されるあまりにも無責任でいい加減なことばには精神的なダメージを受けてしまったのだろう。

ことばは甘くない。

 

 

 

 

                                                2020.12.20

 

 

 

 

 

 

 

『川柳 びわこ』2020.12

 

今年は私が川柳を書き始めて以来、最も句作をしなかった、書く気持ちがちっとも湧かなかった一年。

来年も明るい見通しができないから、同じようなペースになるかもしれない。

これまでも特に明るい心持ちで生きてきたわけではないけれど、こんなに絶望感に覆いつくされた状況はなかったから。

心の中の一部分が壊されてしまったような感覚があって、それはこれまで川柳を書く時に使っていた部分であったらしい。

 

  とても人道的に剥いでゆく皮  重森恒雄

  大関が生まれるように石を置く  〃

  今買うとお得な嘘のてんこ盛り  〃

 

掲載されている自分の句を読んで、「荒れてるな」と認識することは少ししんどいことで、無理して句を書いたり、提出したりしないほうがいいのではないかと悩んでしまったり。

こういう時、結社の一員であることは有難いこと。なんとか毎月雑詠句を書こう、と思うし、お当番で選者の役割も回ってくる。結社に属することがなかったなら、まったく句を書くことをしなかったかもしれない。

編集部の方々、運営の方々に感謝しています。いつも以上に作業は大変だったことでしょう。

 

  無理すると眠れない樹になっていく  伊藤こうか

  「これから」をお醤油味で焼いている 谷口 文

 

今回は「つぶやき」という題の選をさせていただきました。

ささやかな、多彩なつぶやきが家に届いて、選をするのは楽しい時間となりました。

 

  むらさきの言葉つぶやく帰り道   笠川嘉一

  つぶやきが金平糖になりました   小梶忠雄

  つぶやきの端をつかんで濡れている 德永政二

  堪忍袋はやわらかくつぶやく    竹井紫乙

 

 

私は柿アレルギーで、生の柿も干した柿もほとんど食べることができない。

德永政二さん選の宿題は「柿」。不思議なもので、この題はとても句が書きやすかった。題との距離感がちょうどよい、ということなのか。

 

  騙されて熟柿の色の鮮やかさ  竹井紫乙

  干し柿に凝縮されるまつりごと   〃

  混乱期を柿の葉に包んでおく    〃

 

国が大事なのはお金だけで、国民の命は大切ではない。という態度をあからさまに表明されると人心は荒れる。20代、30代の同僚と話していて気付くのは、この世代は子供の頃から世間にとって都合の良い「自己責任論」を徹底して刷り込みされているということ。なんでも「自分にも非があるから」という前置きがまず入る。他人のせいにしない態度は間違っていないけれど、物事の良し悪しについて、正常に判断できているとは言い難いことが多々ある。自分にも他人にも厳しいから、当然大きなストレスを抱えている。人間の体と心はそろばん勘定で成立するものではないのに。

 

  平熱を保つ重なり合う一部       北村幸子

  アイサレテイマスカマスクシテマスカ  中嶋ひろむ

 

                                                   2020.12,6

 

 

 

 

 

 

 

 

歌舞伎俳優の坂田藤十郎さんが亡くなられた。

 

私がこの方の舞台を生で初めて観たのは中村鴈治郎の頃だったけれど、その時の印象は「不思議なひと」だった。

 

一時期、文楽を熱心に観ていたことがある。吉田玉男と竹本住大夫が元気な頃だったので、今思えばいい時に出会った。

文楽では近松門左衛門の作品をよく上演するので、歌舞伎と並行して見比べることができる。

文楽版と歌舞伎版、それぞれの良さがあるので甲乙つけがたいけれど、当時の中村鴈治郎が演じるお初、治兵衛、忠兵衛を

観ていなかったとしたら、それほど歌舞伎での近松ものに魅力は感じなかっただろう。

このひとが演じるひたむきな、愚かな、愛すべき人間像に触れて、歌舞伎が好きになった。

 

ほんとうは、人間は賢く生きる必要はない。

他人から見れば馬鹿馬鹿しいことをやっているように見えたとしても、気にしなくて構わない。

命を使い切ることについて真正面から切り込んでいるのが近松の作品の特徴だとすれば、その世界を演じる役者は形をなぞるだけでは演じることはできない。そのことを証明し続けた役者さんなのだと思う。

 

                                                 2020.11.23

 

 

書肆侃侃房から川柳のアンソロジー本『はじめまして現代川柳』が刊行された。私も参加させていただいた。

 

まず、物体として本自体がとてもカッコよくて嬉しかった。デザインが本当に素敵。出版社の本気を感じる。

この本のコンセプトは非常にわかりやすく、川柳界(と呼べるほどのものは実際問題、ないけれど)の方向はちっとも向いていなくて、これまで川柳にまったく関心がなかった層をターゲットにしている。

 

こういう類の本の影響が出るのはかなり先のことになるだろうけれど、

ないよりは、あったほうがいいのは確かなわけで、10年後、20年後が楽しみだなあと思う。

 

この本は、作者が存命の場合自選句が掲載されている。個人的には皆さんがどんな句を自選されているのかがとても興味深かった。

トップバッターが石田柊馬さんなので、そこからほとんどの読者は目を通すことになる。この構成は絶妙。計算されている。

 

うんと売れるといいな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

神戸市相楽園内で、作詞家の松本隆さんの作品をモチーフに、画家の寺門孝之さんが描いた作品を展示する「風街ヘブン」と銘打った展覧会が開催されている。(寺門さんがいらっしゃって、どんどん画像を拡散していただいていいよ、と仰ったので遠慮なく使わせていただきます。)

 

寺門さんの描く世界と、松本隆さんの書いてこられた世界がぶつかると、本当に楽園的なものが生まれるものだなあと嬉しくなった。松本作品を全曲知っているわけではないけれど、はっぴいえんど、松田聖子、原田真二、この辺りの楽曲は幼い頃から馴染みが深く(私は小学校低学年の時に原田真二のコンサートに行ったことがある)、全身に染みわたっていると言っても過言ではないと思う。こういう感覚の同年代のひとはかなり多いのではないか、とも。

 

それは音楽の力、その時それらの歌をうたっていた歌手の力、でもあるけれど、歌詞の持つ言葉の力がとても大きな影響力を持っていたということ。松本隆さんは重々しい言葉は使っていなかったけれど、一見普通の言葉は身軽な種となって、たくさんのひとの深い所に根を下ろした。「なつかしいいたみ」。懐かしい痛みって何。子供だった私にはわからなかったけれど、この言葉が出だしのフレーズの曲名は、「スイートメモリーズ」。懐かしい痛みは甘いのか。痛みがスイートなら、素敵なんじゃないのか。

この歌詞に対して、寺門さんは全体的にダークな黒っぽい、地味ともいえるような絵を描いておられた。一緒に作品を眺めていた友人は、「そう、そうやねん。これやねん。ピンクじゃないねん。」と呟いた。私達、大人になったものね。

 

 

 

『川柳びわこ』2020.10月

 

  害虫になったことなど忘れてる   清水容子

  最近の大丈夫にはなじめない    川上幸夫

  マスクから顔出している白い虫   重森恒雄

  閉店のデパートしばし見上げてる  笠川嘉一

 

一言でいうと悪い世の中になってしまった。コロナの問題はそれがあらわになったきっかけに過ぎないのだと思う。誰しも「害虫」になる可能性はある。けれど権力者が害虫に変化してしまった場合、不幸になるひとがどれだけ多くなることか。

 

  全力であなたを聞ける耳にする   岡本聡

  線引きの線が悲しいことを言う    〃

  ちぎって食べるフランスパンの空気  〃

 

虚無感の表現として「フランスパン」。わたしには政治家の言葉がほとんど理解できない。それを「聞ける耳にする」というアイロニー。悲しい線引き。

 

  晩ごはんまだかと言って死にたいね     高野久美子

  はい、そこのイエスに椅子はありません   いなだ豆乃助

 

人権って何なのかなと毎日考えさせられる。

 

                                                   2020.10.11

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳 杜人』267号

 

月例句会報の中で都築裕孝さんが「どこもかしこもコロナ、コロナ・・・・。

川柳界も。時事川柳として残る川柳はある?ない?」というコメントを書かれている。誰しも考えること、ではある。

 

現実の生活から離れたいという気持ちでひとは詩を書いたり、句を書いたり、絵を描いたり、歌をうたったりする。映画を観たり観劇したり。現実を見つめ過ぎるとおかしくなってしまいそうになるので。

かと言って、現実からうまく浮遊しなければならない義務もなし。素直な心持ちで川柳を書けば、コロナから発想が離れられないのは普通のことだろう。

 

時事川柳として残る川柳は、ほぼ無いかもしれない。けれど2020年は世界規模で歴史に刻まれる年だから、今年書かれたあらゆるものは後々、検証材料として読まれることになると思う。その頃には今生きている人間は全員死んでいるだろうけれど。

 

  三密を煮つめてジャムにしちゃったの 鈴木節子

  立ち話もう百年がたちました     広瀬ちえみ

  点滴を何度変えれば鶴になる     月波与生

 

これらの掲載句も、今読む時にわたしが感じることと、10年後に初めて読む人の感想はかなり違うだろう。

「三密」という言葉が10年後にも生きている可能性が否めないのだけれど、もしかしたら死語になっているかもしれない。

「立ち話」をする姿も、マスクありから変化しているだろうか。防護服になっていなければいいけれど。

「鶴」に象徴される高齢者がどんどん消えて、人間の平均寿命は短くなってゆくかもしれない。

 

  電柱に抱きついたことありました   佐渡真紀子

 

これからは抱きつく電柱も消滅してゆくのかなと思う過去形。

 

  アイスクリームひんやりとけてゆくきもち  橋本あつ子

 

とけてゆくときに「きもち」ってあるんだ。どんな気持ちなのだろうか。何気ない風に書かれたように見える句なのに、とてもざわざわしてしまう。手遅れ感がこわい。

 

  つながらぬ切れているのがわかる日々  佐藤みさ子

  預かったお肉返却したいのです       〃

  顔が割れたら急ぎ発注してください     〃

  どの人を見ても健気に食事中        〃

 

崖っぷちなんだなと日々感じることが「慣れ」になるのが嫌だし、怖ろしい。

みさ子さんの句群を時事川柳として読むかどうかは意見が分かれるかもしれない。

ただ、2020年の「残ってゆく川柳」だろうと思う。

 

                                                   2020.10.4

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

4連休のうち、2日間はお出掛け。数か月ぶりに友人達と会い、7か月ぶりに母と美術館へ行く。

密にならないように、ということでいずれも予約をして太陽の塔の内部見学やら兵庫県立美術館へ。

どこでも消毒、体温の確認、厳しい所は書類の提出を求められる。

これが一過性の出来事なのか、新しい生活の始まりなのか、はっきりしないけれど当面はこういう状態なのだろう。

 

大阪万博は私が生まれた年に開催され、母のお腹にいた頃から数えきれないほどこの場所に訪れている。太陽の塔の内部は、10年以上前に抽選に当たって見学したことがある。ヘルメットを配られて薄暗い空間に入った。ぼろぼろだったけれど、それでも魅力的な空間で、工事の後に「腕」のところまで見学できるようになったことはとても嬉しい。「腕」は11階で、裏側の階段をくるくる下りて出口へ向かう。途中の壁に「芸術は呪術である。」という岡本太郎のことばが壁面に現れて、ぎょっとする。そうか、呪術にかかるために、のこのこやって来た、というわけか。

 

美術館の方は以前母が行きたいと言っていた展覧会で、デザイナーの皆川明のこれまでの仕事を紹介する内容。

日本の現在のものづくりに対し、非常に挑戦的で、かつ成功しているという事実に驚く。簡単に言えば昔ながらのやり方で仕事をされているのだけれど、これがどれだけ大変なことであるかは、誰でもわかるだろう。

呉服屋さんのやり方で洋服や、生地、小物をつくって売るということ。長く使えるものを提供し、修繕にも対応し、生地だけを売ることもして、ものによっては完全に受注販売の形でつくって、売る。

日本製の材料で、生地で、職人で、つくって、売る。

 

展示されている生地、洋服を眺めていて、心がふるえた。祖母の趣味が洋裁だったから、よく洋服を作ってくれた。その時は有難くも思わなかったけれど、手仕事の素晴らしさは大人になってから理解できる。失えば、簡単には取り戻せない仕事がある。戦前のひいおばあさんや祖母の帯、着物がうちにあって、別に特別上等なものではないけれど、ある人に「戦前の時に作っていたような生地はもう作ることができないから、手放さないで持っておいたほうがいい」と教えられた。

 

わたしはお金持ちではないから、感銘を受けたからといって皆川明の洋服をどんどん買うことができるわけではない。

ただ、自分の持っているものをより大事にしようと改めて思った。大事にできるものを、近くに置いておくように心掛けることくらいはできる。デザイナーの仕事は芸術ではないけれど、感情の深い深いところに届く思想がある。こともある。ということ。

 

太陽の塔は工事着工までに1年以上、工事に1年4か月かかっている。展示期間は半年間。その後取り壊される予定だったものが、修理工事が必要だったとはいえ50年経っても展示可能な物体として存在している。どれだけ当時、きちんとした仕事を現場の人たちが行ったかの証がそこにある。今の日本にそれだけの力があるのだろうか。

 

                                                 2020・9・22

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳 びわこ』2020・9月

 

  私の好きな夏だけ通します 網戸  畑山美幸

  もう少し待って耳をつけ替えるまで ひらがたかこ

 

魅力的なわがままというものがある。「網戸」が素敵。まあまあ目が粗いから。つけ替える耳はむしろなにも聞こえない耳なのかも。

 

  せぷてんばぁ髪を長くのばそうか  岡本聡

  こんな日は練り羊羹に添い寝する  吉田三千子

 

「September」をひらがなにすると、こんなに間延びして見えるものなのだなと気付く。間延びしたまま髪がのびる。練り羊羹に添い寝すると体がべたべたになるだろう。それでいいのだろう。きっと。

 

  気がつくとこの手はいつも濡れている  佐野清美

  うす暗い井戸に浮かんでいたすいか   德永政二

 

水分の句。というか2句ともひたひたしている。そして何故だか恐ろしい。ひたひただから、かしらん。深読みしないほうがいいのだろうけれど、ほとんど怪談に近いくらいぞっとしてしまいました。拭いても拭いても濡れる手、すいかは生首。(すみません)

  

  桃の実が届く桃には種がある      重森恒雄

  ほくろです西瓜の種じゃありません   峯裕見子

  すいかの種この世の息をじっとして   松延博子

 

種の3句。この世に種が存在し続けることは奇跡なのかもしれません。

 

  素人のわたしに咲いてくれた蘭     上田優子

  拝まねばならないものであふれている  重森恒雄

 

謙虚でありたいな、と思ったことでした。

 

 

 

 

 

 

 

葉ねのかべ第十九弾「中山奈々×鈴木マヤ子」展示中

ということで、欲しい本を購入かたがた、展示も楽しみに「葉ね文庫」さんへ。

とても混みあっていて、さすがは連休初日という感じ。欲しい本はすぐに見つかったのでひと安心しつつ、壁へ。

中山奈々さんの俳句と、鈴木マヤ子さんの作品がとても合っていた。

こういうのを幸せな出会いというのだろう。

 

大阪・中崎町サクラビル1F「葉ね文庫」にて。

 

2020年9月20日で700号を迎えるウェブマガジン『週刊俳句』。

何でも継続することは大変なことで、ゆるゆるやってきたから続いているということらしいけれども、毎週の配信を続けてこられたというのは素晴らしいことと思う。

 

699号の柳俳合同誌上句会に参加させていただく。

参加者はそれぞれ5名、合計10名。

https://weekly-haiku.blogspot.com/2020/09/20209.html

 

はっきり川柳の人が書いたであろう、ということがわかる句を出した。

選をする時にはジャンルの違いには留意せずに選をしたけれど、どうしても柳人の書いた(であろう)句に目がいってしまい、そこは素直に要らぬ忖度なしで選句。有難かったのは、選ばなかった句へのコメント提出がOKであった点。いいな、と思ったり、とっても気になるな、と思っても、選句数には限りがある。選句結果を読んだところ、提出句すべてに何らかのコメントが付いていて、読んでいて面白かったし、とても考えさせられる点もあった。色んな意見があることは承知の上で、私は川柳と俳句は兄弟ではあっても別人であると考えているので、そこら辺の「感じ」がそれぞれのコメントによく出ている。

 

週刊俳句では「ウラハイ」があって、樋口由紀子さんの『金曜日の川柳』が刊行されたり、川柳とのパイプが太い。これもゆるゆるとした運営だからこそ可能なのかもしれない。個人的なことでは、川柳の連作で句集を作るきっかけになった句群を掲載していただいたのが週刊俳句なので、お世話になっているという意識がある。

 

俳句は白鳥のボートなら、川柳は黒鳥のボートかもしれない。

 

 

                                               2020.9.20

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳の仲間 旬』231号

 

  曖昧なルールほぼほぼ理解せよ   大川博幸

 

曖昧であってもルールが存在しているだけましなのではないか。最近はルールというものの値打ちが著しく下がったと思う。理解もほぼほぼでなければやっていけない。

 

  自己紹介鶴がキレイに折れません   樹萄らき

 

寛容であることの意義は、みんなが息苦しくなく生きてゆけることにあると思っていた。「鶴」はこの句においては比喩であるけれど、とてもかなしい。

 

  ひまわりはすべてを知っている嫌い  桑沢ひろみ

 

わたしのすべてを知っている存在があるとすれば、それは怖ろしい。わたしより背が高く、見下ろしてくる美しい向日葵は顔中が種で、もうぞっとするくらい怖い。それは「なんでも知っているよ」という傲慢な貌そのものなのかもしれない。

 

                                                    2020.9.13

 

 

 

 

 

『垂人』38号

 

俳句、川柳、短歌、詩、連句など何でもありの『垂人』。

 

いつも面白いのだけれど、今号では広瀬ちえみさんの川柳句集『雨曜日』の感想を各人が書いておられて、いろいろな読み方を楽しむことができる。

ジャンルが違うとひっかかる部分が微妙に違っているようで、興味深い。

 

存在をさらわれそうな風吹いて     高橋かづき

窓はただ全開である鍵もなく        〃

抜き打ちテストのように商品が消える    〃

ワスレタコトヲワスレタコトモワスレタ   〃

 

柳人の高橋かづきさんの連作「レシピ」から抜粋。

生活詠の連作で、様々な事情が浮かび上がっている句群。

忘れられない2020年をどのように生きるか、生きたのか。ふつうに暮らすことを続けることが、サバイバルになった。

来年はもっと悪い年になるかもしれないけれど、それはそれ。私は毎日頭の中が真っ白になるくらい忙しい。

恐ろしくて来年のことはとても考えられない。

 

  そのひとののこしたレシピたどる夏    高橋かづき

  ヨミガエルことはなけれど蛙鳴く       〃

  バランスボールの上でどうやら生きのびる   〃

 

                                               2020.9.9

 

 

 

 

詩を読むのは昔から楽しいことのひとつだけれど、熱心な読者というほどのこともない。

現代詩には詳しくないから、こういうアンソロジー特集などは読んでいて本当に面白い。

知らないことが多いとなんでも面白がれるのかもしれない。

 

これはいい!と思った詩人の本を読もうと思い、まずは掲載されている詩集を購入しようとした。今は便利な世の中で、版元に在庫があるかどうかすぐに調べることができる。

すると、買いたい本は3冊だったのだけれども、すべて在庫切れ。その他の取り扱い媒体でも在庫切れ。あったとしても恐ろしい値段がついている。これは古本屋さんを地道に探すしかなさそうだなと思う。

 

詩人の本で、単行本化されて全国の書店に置かれているものはよほど売れているということなのだろう。そうでなければほとんどが絶版になるのが普通ということか。

 

短歌の本は最近あらゆる場所の書店で目にするようになったので、ずいぶん売れているのだろう。商品として売れるって、大事なことなんだなと改めて痛感。

なんだかもったいないんだなあ。どれもそんなに昔の刊行ではないのに。

というわけで、ありがたくも少し切ないアンソロジー特集『現代詩手帖』2020年8月号。来月号も引き続きアンソロジー特集らしいので、来月もまた欲しい本を探しているのかもしれない。

 

                                            

                                            2020.8.23

 

 

 

 

 

 

 

                                                

酷暑でベランダに出るのがこわい。ぼちぼち洗濯物を取り込んだほうがいいかと思いつつ、窓のそばへ行くとあまりの暑さにひるむ。ぼおっとなって、眠くなる。

 

  イチジクはなまあたたかい希望抱く 北村幸子

 

希望にも温度があるのか?きっとあるんだ。冷たかったり熱かったり。なまあたたかい希望って、ちょっと気持ち悪い。

 

  ムーミンがもうすぐここに来てくれる 片山美津子

  また吐いた真珠の玉のようなもの   峯裕見子

 

嬉しい現象だろうか。いやいや、困るし怖いしうろたえる。天国が近い。

 

  スーパーの入口いつもある儀式    川上幸夫

  王冠を脱いで消毒液が無い      重森恒雄

 

「儀式」は手の消毒のことだろう。確かに儀式めいている。ウイルスは目に見えない。「殺菌」だって目に見えない。もしあの液体がただの水だったら。

 

  鬼退治なんかこわくてできない会  石田柊馬

  ビフテキの値段を一桁変える会    〃

  大仏にビンボーゆすりをさせる会   〃

  ジョーシキを疑う会を疑う会     〃

  性別が突然変わってしまう会     〃

 

「会」という題の連作から一部抜粋。きつい諧謔ですなあと思いながらやっぱり面白い川柳。抜粋句を含むすべての句に「会」の字が入っているけれど、ひらがなで読み直したり、別の漢字を当てはめて読むことも可能な句もある。洒落ている。

 

引用:『川柳びわこ』2020.8月号

   『川柳スパイラル』9号

 

                                                 2020.8.14

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                               

 

『川柳スパイラル』9号を読む。

 

暮田真名さんの『「怖い川柳」試論』と小池正博さんの『川柳における悪意』で拙句を取り上げていただいた。

 

「怖い」ということは何なのか、ということから考えねばならないのだろうと思う。

暮田さんの書いている通り、定型の短さゆえの唐突感が大きな要因になると考えられる。前後の脈絡が読み手に委ねられてしまっているので、妄想力のある人であればあるほど、怖さを感じるだろうし、そうでなくとも書き手のテクニックで一枚の絵を鑑賞するように、怖さを受け取ることが容易である句もある。例えば下記の句が引用されている。

 

  ブロックの塀にひまわり一個の首  八坂俊生

  私も土を被せたひとりです     芳賀博子

 

このあたりの句は書き手の思うつぼに読み手がはまるパターンではないか。

 

私自身は「怖い」をテーマに句を書いたことはないけれど、川柳の場合はある程度、書くときに言葉は悪いけれど「世界をぶん投げる」感覚を持たなければ句に広がりが出にくいし、どんどん句を書いて書いて、世界を押し広げていくものだから逆説的に省略の技術を身につけなければ成立しなくなってゆく。この行為自体が「怖い」ことかもしれないな、と思ったことはある。  

 

小池正博さんの川柳における「悪意」の話は別の場所でもお話しされていたし、繰り返し取り上げておられる重要なテーマのひとつなのだろう。悪意のない人間はほぼ存在しない。川柳は人間の面白味を存分に描く文芸でもあるので、当然あらゆる悪意のオンパレード、のはずだ。悪意と愛は表裏一体でもある。

 

  もうひとり落ちてくるまで穴はたいくつ  広瀬ちえみ

 

この句についての作者、広瀬さんのコメントが紹介されている。「愛情を持って穴の中で待っているつもりなんですが。どこが悪意なんでしょうか」これも作者の本心に違いない。そしてこのように応じることの悪意(いたずら心)というものだって、確かにある。大真面目にふざけているのである。だいたい、大真面目には滑稽さが含まれているし、滑稽さを感じ取る心の動きの中にはゆるい悪意が存在している。複雑でもなんでもなく、普通のことだ。それをわざわざ川柳にするところが面白い。

 

今号で最も鋭い言葉で評を書いておられるのが石田柊馬さん。同人作品のみに限られているけれど、檄を飛ばしまくっている。

これにどう、同人の皆さんは応じていくのかなあというのが読者としての興味だ。次号が楽しみ。

 

 

                                                 2020.8.13

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

千春さんの『てとてと』を読む。川柳、短歌、詩が掲載されている一冊。

くんじろうさんの描かれた表紙の猫がとっても可愛い、千春さんらしさが形になった本。三つのジャンルのものが入っていることと、選をされたのが複数人であることが風通しの良い印象を与えている。

以下、掲載句の中から。

 

  「入ってもいいですか」「いいですよー」ちつ   千春

 

私はこの句が最も千春さんっぽい句だと思うのだけれど、人によっては受入れ難いと思うかもしれない。パートナーとの関係性をきちんと書いている川柳で、平和なところがよい。

 

東京も大阪もまたふくらはぎ            千春

トイレットペーパーの怯える命            〃

ストーブが無いと私は毛が生える           〃

ご飯が炊ける。日常がちらかる            〃

入院はしないから退院もしない            〃

いい結婚ってなんだろうレシートが溜まる       〃

 

生活詠が多い句集で、日常の「見つけ」が光る。

 

 

調和のとれたせかいだ虫歯になる          千春

ずっとここにいたい泥の匂いだね           〃

本の続きを読もうか体の続きをしようか        〃

活字煮るもう飛ぶことが出来ないね          〃

 

丁寧に生活してゆくことを、真面目に川柳にするということ。千春さんの「一生懸命」が伝わってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 

先週友人に誘われてサタケシュンスケさんの個展に出掛けた。

実際の展示作品は近年のものばかりの中、過去のポートフォリオが置いてあって、謙遜して「迷走期のもの」と書いてあったけれど、私は初期の作品から知っているものが多かった。

確かにずいぶんスタイルは変化して現在のものが最も商業的に成功しているに違いない。個人的には左にアップした頃の作品がとてもいいと思った。

 

デザイナーは時代に寄り添って変化してなんぼ、の世界なのだろう。個展を観た後何日間かこの「変化すること」について考えていた。

 

 

仕事がとても忙しくて、ニュースはひどく憂鬱になってしまうものが多くて、あっという間に週末になる。毎日マスクのことばかり気にかけているように思う。(多いときは3回取り換えるので)カレンダーは確かに8月で、そのことを自分はわかっているはずなのに、実感がわかない。

明らかな異常事態が続いているのに私も含めて誰もがそうでないふりをしているような世界。こわい。

こわいと思っているはずなのに、私は今日も健康に過ごしている。明日には通勤電車に乗って、会社で仕事をするだろう。やだ。

ただ変化を嫌がっているだけなのだろうか。

 

                                                   2020.8.2

 

 

 

今年は句会の中止が各地で起こり、誌上句会がとても多いようだ。

事務方の方々は細々とした作業が増えて苦労されていると思うけれど、句会場所がクラスターの発生源になってしまっては大事だから仕方がないだろう。川柳の世界は高齢者が多いので、命にかかわる。

 

びわこ番傘にも参加されている岡本聡さんの、石川県「蟹の目川柳社」誌上大会に投句してみた。407名の参加だったとのこと。すごい人数である。同じ題で選者が11名というのも初めてで、面白いやり方だと思った。選者の方も、選は大変だったろう。良くも悪くも後から自分の選についても厳しく吟味されることにもなる。

発表誌では抜けた句しか読むことはできないけれど、このくらいの規模になればいっそのこと出された句をすべて読んでみたい。と望むのはちょっと無茶かな。

 

各選者のコメント欄の読み比べも楽しかった。感想だけをあっさり書いている人もいれば、選の基準をはっきり書いている人もいれば、それぞれだけれど、どういう物差しをお持ちであるかは選句を眺めれば一目瞭然で、選も作品であることがよくわかる。

 

  埋め草にどうぞと雲を渡される    赤松ますみ

  りんご剥くあの日の手紙読むように  石倉多美子

  好きでした縄文土器というあだ名   佐藤春子

  くちびるは注文通り「ほ」のかたち  青砥和子

  妖怪になろうとしてる文房具     竹井紫乙

  アブラカダブラ頼るのはもう呪文だけ 宮井いずみ

  この春の描写に句読点が無い     北村幸子

  手文庫の鳥はどこからはいったの   伊藤こうか

  モナリザの顔で返事を書いている   浜純子

  把手のある方が文として素的     岡本聡

  九官鳥の文法に誤りがある      木下草風

 

お題は「文」でした。

 

                                              2020.7.19

 

 

 

 

 

川柳のアンソロジー本『金曜日の川柳』左右社。

 

ウェブマガジン『週刊俳句』のデイリー版『ウラハイ』」で九年間、樋口由紀子さんが連載されているものをまとめた一冊。

とてもお洒落な装丁で、一ページ一句。分厚いので持ち運びには向かないけれど、一ページ一句なのでわりと早く読めてしまうかも。

私は勤務先の引き出しに置いておいて、業務時間外にちょこちょこ読んだ。

 

コロナ禍であるから、社内は全員マスク姿で、お喋りの飛沫感染が危険と言われているし、とても静か。もともと私は勤務中にお喋りしない人間だけれど、さらに喋らなくなった。電話の受け答えと、始業前のほんのひととき、昼休みの少しの時間、くらいが「会話」する時間だ。私は怖がりで、本当は通勤電車に乗るのがもう嫌だし、出勤もしたくない。何なら別に会社の人たちと会話しなくても構わないくらいに思っている。けれど社会はそんな態度は許さない。「関わっていくのが正義」なのだ。

確かに、ひとは一人きりでは生きてゆけない。人間としてやっていく以上は。いろんなことがやって来て、起こって、疲れる。

そういう合間に川柳を読むとき、とてもあたたかいものに触れたような気持ちになる。なった。この本を読んで。

 

なぜだろうか、と考えてみた。

 

まず、この本がアンソロジーだからだと気付いた。誰か特定の作家の一冊ではないから、とても気楽に読むことができる。

それからチョイスされている句群と構成。とても巧みだ。そして樋口由紀子さんの文章の温度が平熱を保っているということ。

つまり、読み物として疲れないものに仕上がっているということ。

 

作家性の欠如。

3冊も句集をつくってしまった私としては複雑な気持ちになる事実ではあるけれど、もしかして川柳作家の本が流通しているものとして少ないのは、単純に需要がないからだということ。多くの人が「読みたい」と思い、何度も繰り返し読む川柳の本は、こういうタイプの作者が誰でも構わない、作者名が無くてもいい、ただ一句を読むことにだけ、集中できる本なのではないか。

図書館に行けばサラリーマン川柳の本が必ず数冊置かれており、本屋に行っても同じサラリーマン川柳の本が売られている。

需要が絶対にあるという事実は重い。川柳を読んで楽しみたい層はきちんといるけれど、特定の作家の川柳句集は求められていない可能性が高い。流通していないから売れないのではなく、望まれていないのではないか。

もしも需要があるならば、ずいぶん昔のことではあるけれど時実新子が「売れた」時に、他の川柳作家の本だって売れたはずだ。

あれはあくまで時実新子の書いた句が売れたのであって、川柳というジャンルがスポットライトを浴びたのではなかった。

 

このアンソロジー本には後世に残ってほしい名句、佳句がたくさん掲載されていて素晴らしい一冊なのだけれども、川柳は江戸時代のように作者がどこの誰だかわからなくても、(事情は現在とは異なるとはいえ)全然かまわないジャンルではないのかという考えが初めて頭に浮かんでいる。これは自分でも意外なことなんだけど。そのくらい、「川柳」の器は大きいと思った。

 

 

                                                      2020.7.17

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カーリングシトーンズの楽曲はどれもこれも面白いのだけれど、特にこの「オイ!」はお気に入り。

サウンドは80年代のインディーズバンドみたいだし、歌詞は直球ストレートで、ジャケットのデザインは本当にひどい。

そして何回も聴く。                                               

『川柳 びわこ』2020.7

 

  どくだみの花が咲いたよ明るい夜だよ   ひらがたかこ

 

 前に住んでいた家の庭にはどくだみの花がたくさん咲いていた。私はあまりどくだみが好きではなくて、花の印象は「暗い」と感じていた。引っ越しして、庭がないので鉢植えばかり置いている。その鉢植えの中からひょっこりどくだみの花が咲いた。

 とても美しいと思った。健気にも思った。会社の近くの植え込みにもどくだみの花が咲いていて、なんだか懐かしくなって、とても気になる花になった。

 

  糸貸して下さい私ほどけそう  高野久美子

 

 たまにこんな状態になる。どうにも集中力がうまくコントロールできず、慣れた作業なら何とかやれるけれど、頭をしっかり回転させることができない感じ。体調のせいなのか、精神的なものなのか、よくわからなかったりして不安になる。糸は、所詮は仮縫い程度の役にしかたたないだろう。ほどけきったらどうなるのかなあ。

 

  自転車はひっくり返る為にある  いなだ豆乃助

  坂道を避けることから始めます    〃

  何もかも捨てて隠れる場所がない 重森恒雄

 

 そっかー。ひっくり返るのは当たり前で、坂道は避ければいいんだ。目から鱗。なんてね。川柳だなあとしみじみ。隠れる必要、あるのですね。人間は。

 

  鳥の目を持った少女が話してる  川上幸夫

  好きなことしかできなくて鳥になる  清水容子

  鳥だったこと忘れたのお父さん  大谷のり子

 

 いずれも「鳥」という題での句。私は鳩やカラスが怖い。けれど鳥は眺めているぶんにはとても素敵で、羨望の対象でもある。

少女はいつの時代でも異物なのかもしれない。鳥ではなくなった父はかなしい。人間が鳥になってしまうともっと切ない。

 

  あの頃は凄くもてたと茶をずずず 笠川嘉一

 

 わ、わたしもいつかこれ、使おう。

 

  七色の粉にまみれている眠気  竹井紫乙

 

 この句に畑山美幸さんが「私もまみれたことのあるこの粉。年齢を重ねた今、何処へともなく消えてしまった。大事な粉だったのに。」と書いてくださった。そうか、大事な粉なんだ。知らなかった。消えてしまってからわかることって、きっとたくさんあるのですね。

 

 

 

 

 

 

 

時差出勤が始まって以来、通勤電車では往復必ず座れるので、読書をする。会社では昼休みに少しだけ余裕があるので、会社用の本を引き出しに置いていて、少しずつ読み進める。先週までは持ち歩き用が『カラマーゾフの兄弟』で、会社用が『ねむらない樹』。

 

ドストエフスキーの本はまだ全部読んでいない。全部読みたいな。読もう。世界の文豪だから、本屋さんにも図書館にも絶対あって、いくらでも読めるもんね。でも『カラマーゾフの兄弟』が面白すぎるから、なかなか他の小説に進めない。前にも別の訳者の本を読んでいるけれど、他の翻訳者版も読みたいし、何度読んでも面白い。しかも美味しそうなものがいっぱい出てくるから、なんだか色々食べたくもなる。素敵。

 

書肆侃侃房の短歌雑誌『ねむらない樹』は短歌をやっていない私が読んでも面白く読むことができる。

『現代短歌のニューウェーブとは何か?』という本も最近発売されているけれど、この雑誌の2号で「ニューウェーブ再考」という記事が掲載されていて、いろいろな意味で興味深く読んだ。そのあとにきちんとこの問題についての本が刊行されてしまうところがとても素晴らしいところだと思う。これは短歌に関わる人たちが、短歌をとても大切に扱っていることのあらわれだろう。

 

「大切に扱う、おもう」ってどういうことかといえば、忘れないこと。気に掛けること。手入れし続けること。関わり続けること。

古びた箱に入れっぱなしにして、鍵をかけることではないということ。

 

『カラマーゾフの兄弟』の新訳が話題になったのはもうだいぶん前だけど、いろいろな翻訳があっていいと思う。いくつもの種類の翻訳版が存在していることが大事だし、(だいたい私にはロシア語の原文は読み下せない)ずっと読み継がれてゆくことがいいことだから。これからも、何度も、カラマーゾフ家のひとたちに会える。

 

                                                 2020.6.28

 

 

 

 

久しぶりに友達に会いに神戸へ出掛ける。

 

「おでかけ」自体、3か月以上していない。会社に行くか、必要な物を買いに行くか、公園に行くか、くらいの日々だった。

未だにマスクは外せない状況だから、お化粧もろくにしない。まともにお化粧したのも3か月ぶりだと思う。

 

朝は雨。昼前から晴れて、夕刻また雨。もともと神戸は大阪よりも人出が少ない街だけれども、この日はさらに人が少なく、静か。

 

  いつまでと聞かれ答えられない川   街中 悠

  静かやな夜光塗料のはげた月     北村 幸子

 

みんなの近況を話し合う。大笑いできる話もあれば、そうでない話もある。コロナの問題があろうとなかろうと、何の心配事もなく生きている人間なんていないから。死ぬときに、「まあまあ、けっこう、面白かったわ」と思いたいだけ。みんなそれぞれ、まだやってみたいことがある。

 

  最悪の事態とはいえイチゴパフェ  重森 恒雄

  ありがたいことに時どき夜が来る   〃

 

祖母は瓦せんべいが好きで、亀井堂のお菓子はよく祖母の家で食べた。大阪の造幣局の桜の通り抜けでも出店があって、そこで必ず祖母は瓦せんべいを買うきまり。高架下を通った時に、懐かしくて瓦せんべいを購入した。特に私の好物というわけではないけれど、瓦せんべいを齧るとき「おばあちゃんの分も、食べてるんやで」と胸の内でつぶやく。

 

  会いましょうあなたも消して私も消して  徳永 政二

 

ポートタワーの方向へ歩く。私達以外、誰もいない。友達が「ああ、もううっとおしい。マスク、いま外してもいいやんな」と言う。「ええんちゃう」と答える。海が見える。フィッシュダンスホールはスターバックスコーヒーに変身していた。

 

                

                                                  2020.6.14

 

 

 

 

 

 

 

広瀬ちえみさんの第三句集『雨曜日』。

発行は「(株)文學の森」http://www.bungak.com

2300円(税別)

 

ちえみさんの川柳は面白くて楽しくて毒もあってとても好きなのだけれど、最大の特徴は反骨精神だと思っている。

そして反骨に伴うふてぶてしさは、句を書く上で強みとなる。俳諧の匂いも色濃くまとっている作風だから、ちえみさんの句は読みやすい顔形をしているところも特徴。

 

タイトルにもなっている雨曜日の句は二句。

 

 うっかりと生まれてしまう雨曜日

 雨曜日だったね全部おぼえている

 

そして雨にまつわる句も多い。不思議と軽やかな雨たちであるところがちえみさんの力量。梅雨入りの時期の発行で、洒落ているのだなと思った。カバーを外すと本体は濃いグレーで、これは

 

  心臓のあたりで育つ黒真珠  

 

という句に重なるイメージ。お洒落なんである。

 

広瀬ちえみさんといえば仙台の結社『杜人』の作家。あまり土地柄を感じさせない作風ではあるけれど、今回の句集は東日本大震災のことを抜きにしては編集されていないし、かといって述懐にはなっておらず、この辺りの表現、構成は本当に見事。

これが可能である背景にはそもそもの作者の反骨精神があっての事と推察する。

 

  かき混ぜるだけで戦争できあがる

  生みにくる戒厳令の夜をぬけ

  地図ひろげいまたましいはこのあたり

  どうぞその青は踏んでも起きるから

  墜落日だからお外に出たらだめ

  松林だっただっただっただった

  窓だった玄関だったという瓦礫

  たたきの刑酢じめの刑に遭っており

  この国の玉葱切って泣いている

 

こういった川柳がこの句集に深みを与えていることは素晴らしいことと思う。

 

最後に個人的に大好きな句を。

 

  あかさたないきしちにがありミルフィーユ

  うつつとはいきなりけがをするところ

  春の野の自分はお持ち帰りください

  正月のビンボーリンボーダンスなり

 

 

                                             2020.6.6

 

 

 

 

 

 

 

なんにも解決していないけれど自粛要請は緩んだ。

一番怖い思いをし続けているのは医療現場で働く人たちなので、

せめて自分としては体調管理に努めて病院に行くことがないようにしようと気をつけるしかなし。(とはいえ、眼科や歯科、その他の個人病院にはいかねばならない用がある。)

 

リモートワークは通勤しなくてよいという利点が大きいのだけれど、会社ごとのルールがきちんと整備されていなければ、むしろ労働者の負担は増幅されてしまうような気もした。

 

今のところは時差出勤を継続中なので満員電車には乗らずに済んでいる。コロナのことを考えれば満員電車を避けるというのが私にとっては一番大事なことかもしれない。

 

相変わらず非正規で働いているから、会社に対する愛情は無いし、帰属意識も無い。正社員であった時でもそうだったけど更にそういった意識は薄いわけで、自粛要請が終わったとたんに嬉々としている方々の様子を見るにつけ、不思議なような、少し羨ましいような、うっとおしいような心持になる。「自分の居場所はここだ」という実感を持っているということは、きっと心強いことなのだろう。あと2年しか働かない場所でスキルアップについて話し合ったり、新しい業務を習得する予定を説明されたりしても、もちろん仕事だから真面目に取り組むとして、あまり嬉しくはない。なんでもやっておいたらいいか、くらいの感じ。

非正規労働者に正規雇用された人間と同等の熱意を要求するのは、無理だということが、理解できない、あるいは理解したくない人たちが多いことに驚く。

 

積み重ねっていったいなんだろう。と感じることが多い。会社員であれば、収入に反映した時に積み重ねてきたことの重み、といったようなものを実感するのだろうか。川柳の場合はどうか。わたしは3冊句集を制作しているから、なにをどのように書いてきたのかを客観的に眺めることができる。ただそれだけのこと。これも積み重ねの結果といえるのかもしれないけれど。

 

嘘とごまかしとでたらめを積み重ねたらどうなるか。それはどんな形をしているのか。真実と誠実とまっとうさを土台にすれば、安定した形になるのか。まるでわからなくなってしまった。ニュースは毎日、かなしい。

 

                                               2020.5.31

 

 

 

 

 

 

『川柳 北田辺』第112号

 

高齢化及びコロナの影響でいくつかの川柳結社の閉会、解散が続いていると書かれている冒頭の放蕩言。 川柳をしているひとのおそらく8割くらいは句会ありきで活動されていると思われるので、さもありなん。座の文芸とはいえ書くときはひとり。座もこれから変化してゆくかもしれない。ひきこもりになったことはないけれど、ひきこもっていられる性分なので、句会に対する情熱はない。ただこれから川柳に新たにかかわってくる人たちの入り口は変わらざるを得ないだろうと思う。句会というわかりやすい間口は狭くなる。そのかわりになるものが用意できなければ、徐々に川柳人口は減少するのが自然な流れだろう。

 

私は「川柳 北田辺」でお世話になっていた時期があるので、句会報に掲載されている句群を読んで、難解句ばかりだとは思わない。場の雰囲気を知っているので違和感も感じない。けれどいきなりこの句会報を目にすれば、川柳って難しいからちょっと無理かな、と誤解されてしまうかもしれない。今号では巻末に主催のくんじろうさんが配慮のある寸評を書かれている。こういったガイドは、ずべての柳誌に必要なのかもなあと思った。参加者以外にも読んでもらうなら、内輪だけで理解されておればよいというものでもない。

 

  丸善に置いた檸檬は無農薬     いなだ豆乃助

  ヴァセリンを境界線に塗りたくる  榊陽子

  陰性も陽性もパンダに並ぶ     中山奈々

  お臍から2センチほどが国境    くんじろう

  反省の度にトカゲは中二階     山本早苗

 

川柳らしい川柳だなあと思う。書き手は時事吟を書いてるつもりはないと思うけれど。ちょっと江戸時代のような感覚といえばいいのか、現実の半歩後ろに句がある、といった感じ。

 

  たんぽぽの土手で確かめあっている  森田律子

  むらさきの植物園を産み落とす     〃

  体内の桜は年中狂い咲き       蟹口和枝

  掌をひらけば蝶の受粉中       木口雅裕

  うなじから腰のあたりへ天の川    くんじろう

  自転車の後ろに午後を乗せてゆく    〃

 

春の抒情は乾燥しているところが好い。そしてくしゃみとセットである。

 

  骨盤の位置を揃えて兵馬俑     くんじろう

  日曜日相田さん家は燃えていた   いなだ豆乃助

 

それぞれ「兵馬俑」「相田さんの一日」という題での句。そもそも題が無茶な気もするけれど、句会の題は何でもありなので問題ないだろう。見事な返球。

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

連休中に本棚の整理整頓。引っ越ししてから3年ばかし。

もう本が本棚からはみ出しつつあって、焦っていたので何とかする。そして机の横に読むつもりで積みあがっていた本のチェックも行う。残念ながら、もうこれはこの先読むことはないな・・・。という本も何冊かあって、一体これらを購入した時の気持ちって何だったんだろうかと、思い出そうとするのだけれどなかなか。

やはり本にもご縁というものがあるのだな。

 

ということでその積みあがった本の中から『現代川柳』『垂人』を読んで休日を過ごす。曇りのような、雨のような、晴れのような不安定な土日は読書に限る。

鳥の句。

  三角に折られた過去を持つ鳥だ    城水めぐみ

  何を捨てて鳥になったか聞いている  野上藪蔵

 

いずれも「過去」のことを書いている。今は自由な状態だけれど過去は不自由であったという設定で書かれており、鳥は自由の象徴として扱われていて、オーソドックスなテーマ。作者の立ち位置は微妙に違っているけれど、『現代川柳』誌らしいなあと思う。

ノスタルジーというべきか、なんだか懐かしかった。

別の号では「いのちと向き合う川柳」を公募したものが発表されていた。阪神大震災から25年、東日本大震災から9年。こういう企画もこの柳誌らしい。141名から700句あまりの出句とのこと。こういった企画は記憶の風化を防ぐ目的もある。句の出来栄えよりも、その意図のほうがむしろ重要かもしれないし、それでいいのではないかと思う。だから句はあまり個性的なものは集まらないのが普通だろう。その句群の中でひときわ目を引くものがあった。

 

  キャラメルがしずかにとけたおそうしき  西沢葉火

  今ここで生きる私は人柱          〃

  再開は桜堤に埋めておく          〃

  一切の泥はこの世に捨ててゆけ       〃

  生タマゴ今朝も輪廻の音をさせ       〃

  よく伸びるもう味のないガムなのに     〃

  擦り減った罅とは知らぬまま蛹       〃

 

雑詠の欄で出されていたなら、また読み方が違ったかもしれない。けれど作者なりの向き合い方がこれなんだろうなと納得させられる部分がはっきりしていて、いいなあと思った。「キャラメル」「人柱」あたりが特に響いた。

 

『垂人』はなぜか2016年12月の号と、2017年3月の号が積読の山に紛れていて、なんかもう自分の行動は雑で嫌になるなーと実感しつつ、読む。久しぶりに楽しかった。中でも中内火星さんの作品がとても。(俳句の連作から引用です)

 

  佐藤は女その点鈴木は中途半端          中内火星

  部署ごとに佐藤さんいてすずきける          〃

 

  佐藤に突っ込まれる鈴木は専門家           〃

  まちがいなく鱸の砂糖煮は鈴木の佐藤似を言わぬ    〃

 

スズキとサトウがテーマになっており、これが2016年にも2017年にも現れる。だからなんだという人もいるかもしれないけれど、これが妙に気に入ってしまった。

 

  屍になり春の空気に浮いている          中内火星

 

これも。

 

川柳では広瀬ちえみさんの美味しくて甘くてあぶない句を。軽いのだけれど、鋭い味わい。

 

  人生は骨付き肉を出されたり          広瀬ちえみ

  人生は蜜蜂の巣を見つけたり            〃

 

 

明日からも人生は続く。

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

何かと出会うにはいろんな道筋が存在する。一冊の本にたどり着くにもすんなり出会うわけでもない。それが面白い。

 

橘いずみさんの詩集『DOOR2017』は作者から直接購入することができた。入手経路はTwitterである。ご本人のアカウントがまずあって、そこで詩集のことを広報されていた。橘いずみさんの詩を知るきっかけは、資生堂の『花椿』。橘さんの小さな詩集が付録としてついていた。その『花椿』は最寄り駅に近い書店で手に入れた。昨年の冬のことである。

 

松下育男さんの詩集『松下育男 詩集』を手にするきっかけは、まず去年、私の句集を制作するにあたり柳本々々さんとメールでやりとりする中で松下さんの言葉が出てきたこと。々々さんは昨年の『現代詩手帖賞』を受賞されたのだけれど、昨年の選考委員が松下育男さんで、選評の言葉の数々がとても印象的だった。Twitterアカウントもお持ちで、時々タイムラインで流れてくるそのことばがまた良くて、フォローしてよく眺めるようになり、詩集を購入した。

 

SNSはその弊害をよく話題にされるけれど、私にとっては有益な新しい扉のひとつだ。使い方に気を付ければいいのだと思う。

情報量が多いので、偶然目に入ってくる部分しか掬い取ることはできないし、たくさんの時間を費やすことはそもそも無理。

そういうものなのだと割り切る。

 

橘さんの詩集は毎年制作されているそうで、年毎に形態も違うらしい。私は2017年のものを購入したわけだけれど、本として綴じているのではなく、一枚の用紙として一篇ごとに印刷されているものだった。美しく、読み手もゆっくり、丁寧に読むことになる。

物体自体が素敵なので、包みをあけたとき、とても嬉しかった。書かれた詩もそのモノと同じく、清々しい。

 

松下さんの詩集は近年読んだどの本よりも、最も揺さぶられる書物だった。それで私はこれまで書いたことがなかったのに、そして書こうと思ってもなかったのに、詩を書いてみることになったのだった。生きていると、思いがけないことが起こる。

 

                                                2020.5.7

 

 

 

 

 

 

 

長野県から『川柳の仲間 旬』、滋賀県から『川柳 びわこ』が届く。

どちらもコロナを取り上げた句が多い。私もコロナのことを句に書いた。佳句であるかないかは気にせず書いた。数年前なら、あえてコロナのことは外して書いた句を出しただろうと思うけれど心境の変化があった。

震災があった時には被害が目に見える形で報道され、それは何らかの「認識」をひとに促す。感染症の場合は、被害が目に見えない。コロナの場合は、おそらくあえて、目に見える被害が報道されていない。ただ、不安だけが増幅されている。日本の場合は。

 

  くり抜いた今年をどこに置きますか  北村幸子

 

くり抜くことができたなら、どんなにいいだろうかと思う。置き場はないし、あったことをなかったことにはできない。

 

  終点のない鈍行に乗っている     高田修

 

苦痛が長く延ばされている。降りることができない列車という現実。

 

  どしゃぶりがやむと少女はもういない 桑沢ひろみ

 

お笑い芸人が深夜ラジオでの発言で避難を浴びている。私はその放送を聴いていないので、報道を読むばかりなのだけれども、あれが本当なら恐ろしいことだと思った。乱暴に要約すれば、江戸時代の遊郭の経営者のような発言だ。飢饉が起こった村では若い娘が売られてくるから楽しみだ。というような内容である。上玉が安値で買える、ということ。

最も問題なのは、経済的に困窮した場合、若い女性には体を売る以外のセーフティーネットが整備されていないのか、という点だ。

もしそうであるならば、これは政治の問題だ。いまだに困窮しているなら、体を売り物にすればいいじゃないか、若いんだから。というような考え方が根強く残っているというなら、これは社会問題である。

はっきり言って、このような話題はお笑いのネタにならない。下ネタですらないから。貧困を笑いに変換できるのは、当事者だけなのではないだろうか。

たかが芸人が深夜ラジオで喋っただけのこと。では済まされない。

この件では芸人の相方が「結婚しろ」と説教しただの、別番組の降板署名問題だのと色々な事が派生しているらしいけれど、それらの派生した内容が正しいか間違っているかは横に置いておくとして、この出来事を問題視しない人たちこそが問題だと思う。

 

  目が醒める錆つくことを知っていく  樹萄らき

 

川柳の句会では明らかな女性蔑視と思われる句が提出されることがある。当然、そのことが指摘される。けれど作者はほとんどそのことについて無自覚であるか、「川柳ってなに書いても自由だろ。」と言って開き直っている。頭が錆びているのだろう。

 

            

                                                 2020.5.4

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳 びわこ』2020.4

 

なかなか在宅勤務の話が進まず、時差出勤すら決めることができずにいる勤務先である。通勤電車は人が減ったとはいえ、ものすごくガラガラとは言えず、社内でも全員がマスクを着用しているわけでもなく、本気で感染症対策をやる気があるとは思えない有様。しかも仕事が忙しい。なぜかといえば、私の管轄地域は静岡から九州の広範囲で、地方都市では普通に生活し続けているからだ。ちらほら仕事のキャンセルや解約が入り始めているけれど、事務方の私にはすべてが仕事である。売上が0でも、そうでなくとも。

 

どこまでが石でどこからが体    宮井いづみ

目刺しの目春の暗がり見つめてる  谷口文

この春から半透明になりますの   北村幸子

 

重たい春だと思う。私はウイルスが怖くて本当は電車に乗りたくない。仕事があること自体は有難いけれど、通勤そのものに苦痛を感じている。心を無にしなければ、やり過ごせない。忙しい業務の合間にふと、様々な矛盾について考えそうになっては打ち消す。

 

ぐるぐるぐる書けてしまったボールペン  川口利江

ゆれている正座しているゆれている    笠川嘉一 

 

まさに「しまった」、ぎりぎりの状態が今。普通のひとが真面目に働いて、どうにか市民生活が保たれているようには見える。でもインクは必ずきれる。

 

梅も桃も咲かせてお隣は売り家      徳田孝子

ウイルスにやられる側にいる団子     重森恒雄

 

一年間くらいは無収入でも大丈夫なひとは、どのくらい日本にいるのだろうか。個人的な見立てでは、たったの一か月でさえロックダウンをできないならば、コロナの問題は短期間では終息しないだろう。未知のウイルスに罪があるわけではない。こんなことは先々、何度も起こる。その時にきちんとした対応ができなければ、ウイルス以外の原因で死んでしまうひとが多くなる。オリンピックも中止になるだろう。医療も物流も、人間がやっていることであって、機械で処理できる仕事ではないからだ。マスクは素人が手作りしても構わないけれど、資格を持った人間でなければできないことはたくさんある。そして人間はきちんと食べて、寝て、体をケアしなければ倒れてしまう。そんな当たり前のことを政治家には真剣に考えてもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

手繰り寄せても手繰り寄せてもカボチャ  森田律子

南瓜馬車馬車から戻し種を取る      野口裕

 

上の律子さんの句は川柳で、下の裕さんの句は俳句。

おなじ「かぼちゃ」を扱っていても、これだけ趣が異なるのが面白い。

趣が異なるとはいえ共通点もあって、どちらの句の世界もループしている状態を書いている。不思議だなーって妙に感心しちゃう。

どうしてかぼちゃはループするのか?他に野菜、根菜はあるわけなのだけれども。あの形態に秘密があるのか。

どちらも暗い句ではないのだけれど、なんだか切なくなるのも不思議。

 

 

 

 

 

 

 

 

『川柳大学』が活動していた頃、会員が全国にいたから各地にゼミがあって、私も豊中ゼミでお世話になった時期があった。

終刊後、活動を続けているゼミのひとつが秋田県、羽後の「川柳ゼミナール・うご」。

現在の参加者は秋田県外の方も多いよう。会自体は最低でも二人参加者がいれば可能なのだけれど、二人でもいいよね!とはなかなかいかないものなのかもしれない。(個人的にはやる気がありさえすれば、二人でいいじゃないかと思うけれど。)

カラフルで美しい「うごうた」。Twitterアカウントは@ugouta_akita

 

 中川浩さんの句が以前から好きで、久しぶりにまとまった形で拝読できたのは嬉しい。しばらく浩さんの句を読んでいなかったので、変わられたな、と思った。どのように変わったのかというと脂身がそぎ落とされたような印象を受けた。

なにかどこかがちょっとおかしい。でもアイロニーも含まれている。そしてさらさらしている。

 

  続くのは夢ではなくて冗談だ       中川浩

  ふるさとがタネも仕掛けもなく消える    〃

  鉛筆がころんでサンマ焦げている      〃

  とんかつをバナナのように噛み切れる    〃

  ほんとうに飲みたかったのは水だ      〃

 

佐渡真紀子さんは年齢がちょっと近いので、昔から注意して句をチェックしていた。安定しているなあという印象に変わりはなく、何よりまだ川柳を書き続けているということが勝手に嬉しく思うひと。『杜人』でも句を読むことができる。

 

  私の余白に刺繍してみたり       佐渡真紀子

  鳥類の声で仲間を探してる         〃

  もじゃもじゃでやさしい鳥になるんだよ   〃

  踏み出せば一番深い水たまり        〃

  生命線辿れば美しき銀河          〃

 

 

新子先生が亡くなられた時に、御恩返しができるとすれば、それは川柳を書き続けることだと考えた。これはごく単純なことで、文字通り書き続けること、だけ。それだけでもなかなか難しいことだろうとも思っていた。書くことをやめなかった人たちがいる。そのことを考える時、やめてしまった人たちのことも思い出す。もちろん、やめていいこと。ただやめたタイミングが時実新子がいなくなった時であった、ということが少しかなしいだけ。

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

休みのたびに雨で、そして相変わらず外出は控えていたい。外に出たくない理由は花粉で、休みの日くらいはマスクをつけたくないし、薬も飲みたくない。コロナウイルスはもう世界中に蔓延しているから、私にできることは外出後にはすぐに手を洗ってうがいして、入浴までしてしまって、母親に近づきすぎないこと。これくらいしかやれることはない。出勤するには電車は乗らないわけにはいかないし、人混みを避けるのは限界がある。

 

昨日は金曜日でホワイトデーの前日ということもあって、百貨店は買い物客が多かった。スーパーに寄っても親子連れが多く、父と子の組み合わせが多いように感じた。

 

  みんないるだけで発酵するわが家  川村美栄子

 

家族はいろいろややこしい。私の家庭はややこしい時期を越えてしまった後なので、とても平和であるけれど。発酵の元は個人個人の持つ「もてあまし」たものなのだろう。

 

  考えすぎると雪は雪でなくなる   畑山美幸

 

なんでも「過ぎる」とよろしくない。焦点がどんどんずれてくる。世界的にコストカットのことばかり考えすぎてしまったのがパンデミックの原因だと思う。具合が悪ければ病院に行く。ただこれだけのことを気軽にできない状態に置かれたひとがたくさんいる。

 

  消しゴムで消えぬ水平線の跡   高橋かづき

 

あったことをなかったことにはできない。絶対に。完璧な嘘をつくこともできない。「水平線」が効いている。

 

  母さんにずうっと化けていた桜   北村幸子

  私のカレンダーは二日足りない    〃

  自分の何をちぎって雪にするのだろう 〃

 

なにかを失うときに、信じられないな、と思ってしまうことがある。桜が散ることは知っている。母がいつか死んでしまうことも知っている。雪がとけるものであることも知っている。なんでも知っているはずなのに、私の中では二日分はなんでも足りていない。

48時間あれば、なにかを納得することができるだろうか。

 

 

編集後記に、徳永政二さんが「高齢の方の句が暗く深刻」と書いておられる。川柳は時代性が反映しやすいものなので、当然のことであると思う。そして暗いのは高齢者だけではない。私の下の世代に「就職氷河期」の人たちがいるけれど、高度経済成長期に育った私とは、そもそも感覚がかなり違う。私は恵まれた人間でもなく、社会人としては客観的に見て負け組の人間である。それでも育ってきた社会の空気が明るかったせいで、間抜けなところがあって、鷹揚に見られがちでさえある。

同世代の友達も、どこかのんきな風情を保っている。悩みがないわけでは決してないけれど、ぴりぴりし続けることができないだけなのだ。対して、下の世代の同僚たちのまっすぐさと怒りっぽさに驚かされることが度々ある。真面目で、自分にも他人にも家族にも会社にも、厳しい。だから常に疲れている。すさまじい暗さ。

 

  はんぺんでいようと努力しています  北村幸子

 

私もはんぺんでいることを選んでいたいと思う。

 

 

                                                2020.3.14